第3章 そして花の都へ 〜フランス〜


スイス・フランス国境

  レマン湖のほとり、ロ-ザンヌから、私は再び針路を北にとった。セ-ヌ川沿いにフランスを北 
上し、最終目的地、パリへ向かうためである。アルプスを越えた後、レマン湖北岸にはなだら 
かな丘陵地帯がひろがっていた。私は、はるか彼方に見えるアルプスに別れを告げながら、ス
イス・フランス国境へ向かった。

  国境のゲ-トが見えた。スイス側のゲ-トでは、パスポ-トチェックがあった。が、スイス出国の 
スタンプはもらえなかった。すぐそばにフランス側のゲ-トがあった。様子を見ていると、こちら 
の方はほとんどフリ-パスで通過させているようである。私は、スタンプが欲しかった。「通りなさ
い。」と言われる前にまずパスポ-トを見せねばならない。係官が何も言わないうちからパスポ-
トを取り出して差し出した。が、係官はそれをチラリと見ただけで、にっこり笑って
「どうぞ。」
だった。残念なことに、ここでもスタンプはもらえなかった。仕方がないので、また係官に頼ん 
で、国境線上に立って写真を撮ってもらった。そんな訳で、私のパスポ-トには、スイスとフラン 
スの出入国のスタンプは、今も押されていないままである。
  やはりここでもイタリア・スイス国境と同様に、国境と聞いて思い浮かべる厳しい雰囲気はま 
ったくなかった。せいぜい、高速道路の料金所を通過する程度の感じだった。ヨーロッパが一 
つの大きな国になりつつあるのが、実感として感じられた。
 フランス側のゲートを出たら、大きく"FRANCE"と記された標識があった。いよいよ、ファイナ
ルステージのフランスである。


      スイス・フランス国境


   ボンジュール、ボンジュール
  
  フランスに入って、ますます英語が通じにくくなった。イタリアも英語の通じにくい国だったが、 
フランスはそれ以上だった。感覚的に、道行く人をつかまえて、英語が通じる確率は、フランス 
では10人に一人というとこだろうか。欧米先進諸国で最も英語が通じにくいというのがうなずけ 
た。
  私はどこの国に言っても、挨拶だけは礼儀としてそこの国の言葉でするべきだと思っている 
ので、フランス語も挨拶だけは知っておいた。しかし、私が憶えたフランス語は例によって、ボ 
ンジュール(こんにちは)、パルドン(すいません)、メルスィ(ありがとう)の最重要サバイバル単
語とウイ&ノン(はい&いいえ)のみであり、後は会話集に頼るしかなかった。ツェルマットのユ 
ースホステルで一緒になったフランス人の大学生に、
「年配の人はダメだけれども、若い人なら英語を話す人は多いよ。」
と聞いていた通り、10代 20代位の人だと英語を話せる人が比較的多かったが、それでも、フラ
ンスでは言葉でとても苦労しながらのツーリングとなった。

  フランスと英語と言うと、よくフランス人は自分達の言語に誇りを持っており、英語を知ってい 
ても使わないと言われる。しかし、私の見たところでは、一般的にはそんなことはないように思 
う。英語を知っていても使わないじゃなくて、英語を知らない人が多いのではないか。フランス 
の外国語教育のことは全然知らないが、フランス語は英語よりもスペイン語やイタリア語に近 
いから、学びやすいスペイン語やイタリア語を学習した人が多いのではないだろうか。
  また、これもまったくの推測だが、知っていても使わないと言うことがあったとすれば、それ 
は、決して悪意ではなく、フランス語に誇りを持っていることもあるのだろうけれども、それ以上 
にフランス語がヨーロッパでは通用範囲が広い言語であるために、全世界的には英語が一番 
通じるという感覚が乏しく、まずはフランス語で話してみようとするためせいではなかろうか。
  それに、「目の前に困っている人がいて、その人は英語しか使えない。それでも、英語は知っ
ていても使わない。」と言う人がいたら、それは、誇り高きフランス人というより、単に意地が悪 
い人と言うべきであろう。


    我欲烏龍茶

  言葉でずいぶん苦労しながら、ワインとグルメの王国(らしい)ブルゴーニュの中心都市・ディ 
ジョンにやってきた時のことである。ローマを出発して以来、パンとパスタばかり食べていたの 
で、米が食べたくなってきた。外国に行くと、特にツーリング等で体に負担がかかっているとき 
は、身体の方がそれまで食べ慣れたものを欲しがるようだる。
  例によって、ユースホステルに部屋を取った後、中華料理店を捜しに出かけた。中華料理は 
安いし、世界中どこに行っても、ちょっとした町には中華料理店の一軒くらいはあるものだ。日 
本料理は一般に高いし、「何じゃこれは?」という味の時さえある。北米ツーリングの時、コロラ
ド州のボールダーで、同じように米が食べたくなってきて、寿司屋に入ったことがあった。店の 
つくりはちゃんとした寿司屋であり、値段もそれなりの値段だったのだが、スーパーのパック入 
りの寿司のような味でゲッソリしてしまった。それ以来、「米が食べたくなったら中華料理店」と 
いうのが、私の旅でのいつものパターンである。

  町中で中華料理店を探していた私は、「印度料理」と記された看板を見つけた。
「まあ、印度料理でもいいか。ナンとカレー位を食べようか」
そう思った私はその店に入った。ところがである。その店は、看板は「印度料理」と出している 
のに、内装は完全に中華風で、ウエイトレスもチャイナドレスを来ているのだ。しかも、BGMに 
流れているのは、『北国の春』や『君といつまでも』といった日本の歌謡曲なのだ!
「なんじゃこれは?」
思わず笑えてしまったが、おそらくヨーロッパの人達にとっては、日本も、中国も、そしてインド 
もあまり区別はつかないのだろう。だから、東洋風のものをごちゃまぜでも何でもとにかく揃え 
て、そして看板だけ書き替えれば、それで、印度料理店にも中華料理店にも、あるいは日本料
理店にも韓国料理店にもなってしまうようだ。ヨーロッパ人のアジアに対する認識が分かった気
がした。もっとも我々日本人もヨーロッパ各国の文化の違いなんてよく分からないから、お互い
様というか、まあ、そんなものなのだろうか。

  さて、ここは印度料理店の看板を出した中華料理店だということが分かったので、それなら
何 
かライスメニューがあるだろうと思った。ところが、である。メニューは全てフランス語で書かれ 
ており、どれがライスメニューなのかさっぱり分からないのだ。ウエイトレスも例によって英語が
まったく分からず、
「ライス、ライス。」
と言って箸で食べるジェスチャーをしてみたがまったく分かってもらえない。私は困ってしまっ 
た。
「困ったなあ、今回も米はお預けか?」
と諦めかけた私の脳裏に、名案がひらめいた。
「そうだ、相手は中国人。漢字で書けば分かってくれるだろう!」
私はメモ帳を取り出した。
「『米』でいいかな?まてよ、中華飯、焼飯、天津飯、麻婆飯・・・・そうだ、よ〜し!」
私は大きく一文字『飯』と書いた。それを見たウエイトレスは、
「オ〜、チャーハン?」
と言って『焼飯』と書いてくれた。
「ウイ、ウイ、チャーハン!」
こうして私は、めでたく焼飯を食べることができたのであった。
  焼飯を食べていたら、喉が渇いてきた。お茶が飲みたくなってきた私は、再びメモ帳を取り出
してウエイトレスを呼んだ。
「今度は『茶』でいいかな?いや、ちょっと待て、どうせならここはひとつ、格調高く・・・・」
私は厳かに一文を書いた。
『我欲烏龍茶』
この格調高き名文は見事に通じたのであった。

  ※正しくは『我要烏龍茶』である。


    寒い!

  フランスに入ってから地形がずいぶん変わったのが分かった。道路のアップダウンが少なく 
なった。なだらかな丘陵地帯か、広大な平野がどこまでも広がっている、大陸らしい景色が続 
いた。そしてまた、自転車には、寒いと言ってもいいくらいに涼しくなった。アルプスの南側と北 
側で、かなりの温度差があった。
  ある日、朝から雨になった。私はツーリングの時には、雨天時でもTシャツの上に直接ウイン 
ドブレーカーを着るだけで済ましている。荷物があまり積めないということもあるが、夏のツーリ
ングなら日本でも、そしてアメリカ・カナダでもそれで十分だった。が、しかし、この時は違った。
吐く息が白い。そして、手がかじかんでくるのだ。途中、屋根のあるバス停などで休憩を取り、 
多少なりとも体を温めようとしたが無駄だった。遂に全身が凍えてしまい、走れなくなってしま
っ た。私はたまらず見つけたレストランに逃げ込んだ。コーヒーをのみながら暖をとっている
と、 
隣の席に座った老夫婦が話しかけてきた。フランス語なのでチンプンカンプンだったが、
「どこから来たの?」
と聞かれたのだろうということは分かったので、辞書を引いて
「ジャポネ(日本人)、ビスィクレット(自転車)、ローム、パリス。」
と、フランス語と英語と身振り手振りのごちゃまぜで説明した。どうにか分かってくれたみたい 
だった。にこにこしながらまたフランス語で何か言ってくれた。おそらく、
「大変だね、気をつけて行きなさいよ。」
位の意味だろうと言うことを雰囲気から思ったので、笑ってうなずいたら、向こうも笑ってうなず 
いてくれた。

  雨具なしの軽装備では、寒くて走れたものではなかったので、雨が止まなかったら今日はこ 
の町で一泊か、と思っていたが、幸い雨はあがった。私は、長居をさせてくれた店員に礼を言 
って再び走り始めた。一台の車がクラクションを鳴らして追い越していった。ドライバーが手を 
振っていた。先程レストランで一緒だった老夫婦だった。私も手を上げてそれに応えた。         
  そのレストランを出てまもなく、小さな川があった。何でもない小さな小川に見えたその川だっ
たが、橋のたもとの標識には、"LA SEINE"と記されていた。それは、セーヌ側の源流だっ 
た。パリの灯が見えたような気がした。


               パリへ


  凱旋門

  道はますますフラットになった。広大な平野の中、道の両側にはパッチワークのような畑が
ひ 
ろがっていた。私は、その大陸らしい景色の中を走り続けた。そして私は、遂に頭上の道路標 
識の中に、" PARIS"文字を見つけた。パリがすぐそこまで近づいてきたのが分かった。

  わたしは、"PARIS"の文字を追うように走り続けた。"PARIS 27" の標識が現れた。
「よ〜し、あと27kmだ。」 
  私は大きな河のほとりにでた。セーヌ川だった。二日前には小さな小川だったセーヌ川が、こ
こでは大きな流れになっていた。遠くにタワーが見えた。
「エッフェル塔だ!」
私はすでに、パリ市内に入っていたのだ。私は地図を開き、自分の現在位置と、そして凱旋門
の位置とを確かめた。
「え〜っと、セーヌ川の右岸に沿って下っていけば、ル-ブル美術館の前に出るんだな。そして 
そこから少し走ればシャンゼリゼ通りで、その先が凱旋門なんだな。」
セーヌ川、エッフェル塔、ルーブル美術館、シャンセリゼ通り、そして 凱旋門・・・・地図で位置 
を確かめてるだけなのに、なぜかワクワクしてきてしまった。これが「花の都」の魅力なのだろう
か。
  私は橋を渡った。そして、セーヌ川沿いに走った。ルーブル美術館の前を過ぎ、コンコルド広 
場に出た。そして美しい並木と共にまっすぐに伸びるシャンゼリゼ通りのその先には・・・・
「凱旋門だ!」
凱旋門の雄姿があった。ラストスパートである。私は、シャンゼリゼ通りを一気に駆け抜けた。 
凱旋門の周囲はロータリーになっており、歩行者用の地下道がどこかにあるようだった。しかし
私は、この凱旋門にゴールしたいために、はるばるローマからここまで走ってきたのだ。私は 
車の切れ目を狙ってかまわず突っ切った。そして凱旋門に飛び込んだ!

「やったぜ!!」

  周囲を見ると大勢の観光客がいた。そう、ここは、「花の都パリ」なのだ。そして今、私はロー 
マ〜パリ走破を達成したのだ。
「どんなもんだい・・・・」
誰に言うともなく、そんなふうに思った。私は、アメリカから来たと言う観光客に頼んで写真を撮
ってもらった。そして、あらためて凱旋門を見上げた時には、さすがに胸が熱くなるものがあっ 
た。

     パリ 凱旋門前で



第4章 現代史の舞台



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