第4章 現代史の舞台



モンマルトルの丘

  パリに到着した後、私はのんびりと市内観光を楽しんだ。ジャージにTシャツしか着るものが
無く、それでパリ見物というのが気が引けたのが、前年の北米ツーリングの時も、ニューヨーク
のブロードウェイで、その恰好でミュージカルを見に行ったくらいだから、ツーリングの後ではい
つものことである。
「フン、これがサイクリストの正装なんだい。」
と無理に考えることにして、私はジャージにTシャツといういで立ちで、ルーブル美術館やエッフ
ェル塔などを見て歩いた。

  パリ北部、モンマルトルの丘に行った時のことである。そこでは、多くの画家がキャンバスを
並べていた。そして大勢の観光客が似顔絵を描いてもらっていた。「へ〜、さすがに上手いも
んだなあ。」
と思いながらそれを見ていると、画家の一人が
「よかったら一枚どうですか。」
と、声を掛けてきた。
「いりません。」
と断ったのだが、しつこく声を掛けてくる。そして、私が
「いらない。」
と言っているのに、勝手に私の似顔絵を描き始めた。私は腹が立った。そのキャンバスを掴ん
で取り上げ、怒った顔を近づけて
「イ・ラ・ナ・イ(I don't need it.)」
と言ってやった。その画家は肩をすくめ、さすがにそれ以上は描こうとしなかった。いつもなら、
不快な思いをさせられたという気分になっていたんだろうが、なぜかその時は
「俺もいつのまにか旅慣れしたもんだなあ。」
と思え、後から笑いが出てしまった。


   ベルリンの壁

  2日程パリでぶらぶらした後、私は夜行列車に乗り、ベルリンに向かった。この旅の3年前、
ベルリンの壁が崩壊した。そして2年前、東西のドイツが統一された。その様子をテレビで見て
以来、私はもしヨーロッパに行ったら、絶対にベルリンに行ってみたいと思っていたのだった。
私は、ベルリンの壁跡が見たかった。世界史を自分の目で直接見ることができると思ったの
だ。
  ベルリンは、パリから夜行列車で途中ベルギーを通過して、一晩の距離にある。映画などで
よく見るように、ヨーロッパの列車は6〜8席くらいのコンパートメントと呼ばれる小部屋に分か
れている。座席は、肘掛けが持ち上がるだけでなく、フラットにすることができるので、結構大き
な簡易ベッドとして使うことができる。幸いこの日は他に乗客がおらず、コンパートメント全部を
個室として使うことができた。国境を越えるときはどうするのかな、と思っていたら、国境を越え
る時刻に(深夜だった)車掌がパスポートのチェックに来た。

  翌日、列車はベルリンに到着した。私は一路、現代史の大舞台となったブランデンブルグ門
に向かった。ベルリンの壁が崩壊したときに、何度となくテレビでその姿を目にした、プロイセ
ンの凱旋門である。そして、ほんの数年前までは近づくことすら許されず、常に東ドイツの国境
警備兵の歩哨が立っていた、東西分断の象徴となっていた門である。
  ベルリンの壁の崩壊というのは、まさに歴史上の出来事だったから、今、自分がその場所に
やってきた、というのは何か不思議な感じさえした。警官に壁のあった場所を尋ねたら、すぐ足
元を指差してくれた。道路を見てみると3年前まで壁があった場所にくっきりとアスファルトの継
ぎ目が残っていた。
「そうか、ここに壁があったんだ・・・・」
ブランデンブルグ門の前では、旧東側の軍棒、勲章、双眼鏡などが売られていた。ちょっと偽
物っぽかったが、「ベルリンの壁のかけら」も売られていた。あらためてまさに今、自分が歴史
の大転換点にいるのを感じた。
  壁はすっかり取り払われていたが、東西国境の緩衝地帯だったところはまだ荒れたままにな
っており、まだ、冷たさの残骸を残していた。多くの花が捧げられた墓があった。ベルリンの壁
を越えようとして射殺された人の墓らしかった。なんと壁が崩れる何ヶ月か前の日付の墓があ
った。 合掌。  


  がんばれトラバント

  私は、土産に「ベルリンの壁のかけら」を買った後、ブランデンブルグ門を越えて旧東側の方
に行ってみた。旧東側も、大きな建物は立っているのだが、どことなく、殺風景に感じられた。
さて、私は、旧東ベルリンを歩きながら、あるものを探していた。実は、ベルリンに行ったら、ベ
ルリンの壁と並んでどうしても見てみたい、と思っていたものがあったのだ。それは・・・・・・旧東
ドイツの"名車"トラバントである。東西ドイツが統一された後跡、旧東ドイツの人達が大勢この
車に乗って西側にやってきたこと等から、一躍有名になった車である。
  トラバントについては、ドイツが統一された当時、いくつかの雑誌が特集記事を組んでいた。
『走れ、トラビ』(だったかな?)という映画まで作られたくらいである。なぜ、それほどまでに有
名になったかと言うと、その"凄い性能"にある。その性能とは・・・・

・ 漁船等と同じ2気筒のエンジンを積んでいるので、ポン・ポン・ポンと漁船と同じような音を立
 てて走る。
・ 公害対策がまったくなされておらず、排気ガスがメチャクチャ汚い。
・ 燃料計がついておらず、ガソリンの残量はガソリンタンクに棒を突っ込んで 計る。
・ ボディは鉄板ではなく硬質の紙でできている・・・・・。

 等々、ビックリするくらい凄いものらしいのだ。約30年前に作られ、特に改良などはせずにそ
のまま作り続けられたので、そのようになっているらしい。本当なのかな?と思わせる様な話ば
かりであるが、雑誌に紹介されていたこれらのトラバントの性能の中で、とりわけ信じられない
ことが一つあった。それは、

・ ヘッドライトをハイビーム(遠方を照らす向き)に変える時は、車から降りてヘッドライトの
  下にあるレバーを動かす。

というものだった。
「それじゃあ、事実上固定のままで走るのか?それともハイビームの時に対向車が来たら、そ
のたびにいちいち車を止めて、ライトを下に向けるのか?どちらにしても全然実用性が無いじ
ゃないか。」
これは話に尾鰭がついて伝わっているだけじゃないかと思えたので、私はトラバントが止まって
いたら、自分の目でそのことを確かめてみようと思っていた。

  旧西ベルリン側ではさすがにメルセデス、BMWやVW、あるいは日本車ばかりが目に付き、
トラバントは見かけなかった。が、旧東ベルリンに入ると何度か、ポン・ポン・ポンと音を立てて
走ってくるのに出くわした。
「へ〜、本当に漁船みたいな音を立てて走ってるんだ。」
私は駐車しているトラバントを探した。そして遂に、クリーム色のトラバントが2台並んで止まっ
ているのを見つけた。
「よ〜し、今こそ謎を明らかにするぞ!」
私は、ヘッドライトに顔を近づけた。
「あった!」
私はヘッドライトの下に、黒いレバーがあるのを見つけた。そして、周囲に誰もいないのを確認
した後、レバーに手を伸ばした。
「カチャッ」
私がそのレバーを右に動かすと、ヘッドライトは見事にハイビームに切り替わったのだった。


   我ら東洋人

  私はベルリンから再び夜行列車でフランクフルトに向かい、そこからアウトバーンを走るバス
に乗り、よくポスターなどで見かけるドイツ最高の名城・ノイシュヴァインシュタイン城に向かっ
た。いわゆるロマンチック街道巡りである。
  途中、ローテンブルグ等に立ち寄った後、バスは終点のフュッセンに着いた。同じバスに乗っ
ていた何人かが、ユースホステルに行くということだったので、一緒にぶらぶら歩いていった。
道すがら、何人かが合流してきた。気が付くと、韓国人、香港人、日本人・・・・、東洋人ばかり
である。ユースホステルの食堂で一緒に食事をしていると、また東洋人ばかりが何人か合流し
てきた。そして、いつのまにか、韓国人、香港人、台湾人、日本人、さらには中国系ドイツ
人・・・という、東洋人ばかり十数人からなる大集団ができてしまった。この時ばかりでなく、欧
米を旅していると、東洋人同士がいつも自然に集まってしまうのを、私は何度も経験した。私が
感じるのと同じように、やはり、東洋人は東洋人同士、親近感あるいは安心感を自然に感じる
ものがあるのだろう。
  このグループはお互い非常に話が弾み、翌日みんなで一緒にノイシュヴァインシュタイン城に
行くことになった。私もそれまで、ずっと一人旅だったから、久しぶりに大勢の人とにぎやかに
話すことができ、楽しい一時を過ごすことができた。

  一緒に城を見た後、次の目的地はそれぞれ違っていたので、フュッセン駅で別れることにな
った。私達はお互いに住所交換をした。それまで私達の共通語はやはり英語だった。ここでも
私は、英語の便利さを改めて認識することになった。が、しかし、この時私は、(いや、おそらく
私達は)もっと素晴らしいことに気が付いた。そう、それまでお互いの会話はずっと英語だった
私達だが、住所・氏名は、自分の国の文字、つまり漢字でそのまま書けばいいことに気が付い
たのだ!
「そうだ、私達は東洋の人間なんだ。漢字文化圏で生活しているんだ。」
ということを実感しながら住所を書いてもらっていた時のことである。私は、台湾から来ていた
大学生の住所を見て思わず
「え〜。」
と声を出して驚いてしまった。なんと「亀山」という住所だったのだ。ところが、今度は私の住所
を書いたら、逆に驚かれてしまった。「三重」という町が台湾にもあるという。

   ※「亀山」、「三重」共に台北近郊の地名

  さらには、私の名前を見た台湾の女子大生に、もっと驚かれてしまった。やけに喜んでいる
ので、何を喜んでいるのかな?と思っていたら、ニコニコしながら自分の名前を書いてくれた。
彼女が喜んでいた理由はすぐ分かった。彼女の名前は「周」、姓と名の違いはあっても私と同
じ名前だったのだ。そして私は周ちゃんとこの旅で唯一の2ショットの写真を撮ってしまったの
だった。
  城もとても美しく、多くの人といろんな話ができ、さらには2ショットの写真も撮った。しかし、そ
れ以上にここでの体験は、私に、自分は東洋の人間なんだということ、そして、日本は東洋の
国であるということ、韓国、中国、香港、台湾・・・・これらの国や地域にすむ人達は、私達日本
人の隣人なんだということを、改めて感じさせてくれたのであった。


ノイシュヴァインシュタイン城にて
日本人×4、台湾人×3、シンガポール人×1
香港人×1、韓国人×1、中国系ドイツ人×1
ここでもやっぱり共通語は英語だった


 さらば世界史の舞台よ

  フランクフルトを経てパリに戻った私は、イギリスに渡るため列車でカレイの港に向かった。カ
レイの港はビックリするほどオンボロだった。そしてホワイトクリフを眺めながらドーバー海峡を
越え、イギリスに入った。ロンドンを丸1日歩いて廻った。大英博物館は本当に素晴らしいもの
だった。そしてその翌日、ヒースロー空港から再びシンガポール航空の飛行機に乗った。疲れ
ていたのと、ローマに到着して以来の緊張から解放されたせいか、席に着いた途端、ぐっすり
眠ってしまった。

  どのくらい寝ていたのだろうか。目が覚めてあたりを見回した。搭乗したときと全然変わりは
なかった。静かだった。機体は揺れてもいなかった。
「なんだ、まだ離陸していなかったのか。」
と思って窓の外を見たら、はるか下のほうに街の灯が見えた。離陸したのに気が付かない程、
よほどぐっすり眠っていたらしい。もう、とっくに日は暮れていた。
「あれはロンドンだろうか、それとも、もしかしたらパリの灯か?」
愛車と共に走ったヨーロッパに別れを告げながら、サイクリストから機上の人となった私は、ア
ジアにむけて帰りつつあった。




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