第2章 絵葉書の中で 〜スイス〜


国 境 (1)  

  深い谷にへばりつくように鉄道が走っていた。有名なシンプロントンネルに向かう鉄道であ
る。そしてその鉄道に沿ってスイスに向かう道路は段々と標高を増していった。この道路は、標
高2005mのシンプロン峠に向かっているのだ。国境に近づくにつれ、例のスイス国旗マ-クの
入った車が増えてきた。
  前方にゲ-トが見えた。私は、イタリア・スイス国境までやってきたのだ。私はバッグの奥深く
にしまってあったパスポ-トをいつでも取り出せる場所に入れ替えた。
  このヨ-ロッパツ-リングに関しては、幾つもの国を走ることになるということから、出発前にと
ても不安に感じたことが二つあった。一つは、言葉の問題である。英語圏ならまだしもイタリア
語、ドイツ語、フランス語・・・・いずれもチンプンカンプンである。でもまあ、言葉に関しては、会
話集と英語で、まずなんとかなるだろうと思っていた。それ以上に不安だったのは国境越えで
ある。おそらく、多くの日本人がそうであるように、私は、国境を越えるというのはとても大変な
ことと思っていた。
「ヨ-ロッパではいくつかの国境を越えることになるが、日本人の、しかも自転車の一人旅なん
てすんなり通してくれるのかな?」
そんな不安をずっと持っていた。そして遂に、その最大の不安だった国境にやってきたのだっ
た。

  私はドキドキしながらゲ-トに向かった。自動車の出入国手続きはどうやってするのだろうかと
ゲ-トを見ていたら、なんと車はフリ-パスで通過していた。次々にやってくるイタリア、スイス双
方の車は、いったん停止はするものの、係官はドライバ-の顔をチラリと見るだけで
「行きなさい。」
である。日本での高速道路の料金所よりも簡単に通過している。
「は〜、でも地元の人達の場合は、係官とも顔馴染みの、いわゆる顔パスと言うこともあるから
なあ。」
と、なおも不安を感じながら、遂にゲ-トにやってきた。私は、パス-トを見せようとした。が、しか
し、係官はパスポ-トすら見ずに、
「行きなさい。」
「ゲッ、いいのかな。このことが原因で後からトラブルになっても、俺のせいじゃないぞ。」  
記念にパスポ-トにスタンプが欲しいとも思っていたので、あえてパスポ-トを出そうかな、とも思
ったが、余計なことをしてトラブルになるとまずいので、そのままおとなしくゲ-トを通過した。  

  ゲ-トを越えて数メ-トルのところに、イタリア・スイス国境を示す碑が立っていた。道路上にも
国境線を示す鉄のプレ-トが打ち込んであった。私は、国境線の上に立っている写真が欲しい
と思った。係官は相変わらず、やってくる車を見送っているだけである。私は退屈そうにしてい
たその係官に頼んで、国境の上に立った写真を撮ってもらったのであった。
  数百メ-トル行ったところに、今度はスイス側のゲ-トがあった。陸路の国境では、国境線をは
さんで双方の国にそれぞれのゲ-トがあるのだ。
「今度はいくらなんでもスイス入国のスタンプはもらえるだろう。」
そう思ってゲ-トに行った私だったが、期待は見事に裏切られた。スイス側のゲ-トにはなんと係
官さえいなかったのである。不安に思っていたのがばかばかしくなるくらい、あっけない国境越
えであった。


       イタリア・スイス国境に立つ


  国 境 (2)

  スイス側のゲ-トのそばに両替所があり、そこでイタリアのリラをスイスフランに両替をした。標
高が高くなるにつれ、だんだんとスイスらしい景色になってきた。山腹に小さな村があった。朝
から登り詰めでちょっと疲れていた私は、休憩をとるために、道沿いにあったレストランに入っ
た。私はそこで、一種のカルチャ-ショックを受けることになってしまった。ランゲ-ジ・ショックと
言うべきだろうか。私が立ち寄ったそのレストランでは、店員も客も誰もが「英語ペラペラ」だっ
たのである。
  誤解しないで欲しい。日本人的に、
「すごい、英語ペラペラ!」
と思って驚いたのではない。イタリアは比較的、英語が通じにくい国だった。道行く人をつかま
えたときに、ロ-マ等の有名観光地を除けば、英語を話せる人は五人に一人くらいという感じだ
った。会話集は持っていたので、どうにか用は足せていたが、それでもやはり、言葉が通じなく
て困ったことが、少なからずあった。ところが、である。国境を越えてスイス(ドイツ語圏)に入っ
た途端、誰もが、まるで自分の母国語のように流暢に英語を話すではないか。
 冷静に考えると、国境を越えて別の国に入ったのだから、母国語も、学んでいる外国語も違
うのでこれは当たり前であり何の不思議もない。しかしである。ほんの数十分前に私が見たの
は、誰もが、フリ-パスで通過している国境であった。国境などあってなきのごとし、という状況
を見た直後だっただけに、この英語の通用度の違いは、私にとってはとても驚きであっ
た。            

  この後も、ドイツ語圏では、英語が通じなくて困る、といったことはまったくなかった。英語を知
らない人が珍しい位だったので、わざわざ最初に
"Do you speak English ?"
と聞く必要もないくらいだった。そればかりか、こちらが町中で宿を探してうろうろしていると、
"Can I help you ?"
と、向こうからわざわざ英語で声を掛けてくれるくらいだったので、町中の看板などを見ない限
りは全然ドイツ語圏にいるという感じはまったくせず、
「もしかして、今いるのは英語圏の国なのかな?」
と、思えてしまうほどだった。 
  物理的な国境は、ほとんど存在していないに等しかったが、文化的国境は、そこに厳然と存
在していたのであった。


  アルプスを越えた!

  そのレストランを出た後、私はシンプロン峠を目指してペダルを踏み続けた・・・ と言いたいと
ころなのだが、なぜかこの時、私はちょっと疲れていた。目指す標高は2005mであり、前年の
ロッキ-山脈で越えた3713mに比べれば楽勝なのだが、前年のように、「絶対に自転車を下り
ないで峠を越えてやる!」という気になれなかった。まあ、無理してペダルを踏むのもつまらな
いし、それが事故の原因になることすらある。あまり、カッコよくはなかったが、勾配の急なとこ
ろになると自転車を下りて、トボトボ歩きながら峠を目指した。
  途中、3人組のサイクリストが私を追い越していった。ヨ-ロッパでは、自転車がとても盛んな
ようで、このツ-リング中に多くのサイクリストを見かけた。その中には年配の人も大勢いた。時
には、上りを登っているときに女性サイクリストに抜き去られ、度肝を抜かれることさえあった
程だった。

  かなり時間はかかったが、ようやく、峠にたどり着くことができた。今回は、途中かなり歩いた
とはいえ、前年のアメリカでのロッキ-山脈に続き、ヨ-ロッパに来てアルプスを越えたのだ。私
は満足だった。山の上にスイス国旗がはためいていた。レストランがあり、その前に、一目で
長距離ツ-リングとわかる自転車が何台も止まっていた。私を追い越していった3人もそこにい
た。彼らも私のことを覚えていた。彼らはドイツ人で、ドイツからオ-ストリア、イタリア、そしてス
イスとキャンプをしながら廻ってきたとのこと。今夜は山麓でキャンプということだった。アルプ
ス越えの記念に一緒に写真を撮ってもらった。

 
  ドイツのサイクリストと  アルプス山脈シンプロン峠 

  
  マッタ-ホルン

  峠でしばらくのんびりした後、今度は一気に1700mのダウンヒルである。途中、峠近くの山の
上に大きな鷲の石像があった。それが、かつてスイス軍がドイツ軍の侵略を撃退した記念碑で
あるということは後になって知った。スイスというと、アルプスの山々と美しい湖に囲まれた永世
中立国・・・・、そんなおとぎの国のイメ-ジが強い。しかし、その一方で、意外に知らない人が多
いのだが、スイスには厳しい徴兵制が敷かれており、兵役を終えた後も、国民には毎年何日
間かの軍事訓練が義務づけられているという、強力な軍隊を持つ軍事国家でもあるのだ。

  シンプロントンネルのスイス側の出口に位置する、ブリ-クという町で一泊した後、私はマッタ-
ホルンの麓の町、ツェルマットにむかった。再び山登りになったが、峠越えではないので、幸
い、あまりきつい勾配の所はなかった。
  私はのんびりと景色を楽しみながら走った。
「へ〜、絵葉書の中にいるみたいだ・・・。」
そこで私は、まるで自分が絵葉書の中を走っているかのような錯覚にとらわれた。草知の広が
る斜面に立つ教会、そして家々の窓に咲く美しい花々・・・。子供の頃憧れていた景色が、スイ
スらしいスイスがそこにあった。
「マッタ-ホルンだ!」
ツェルマットに到着した私の目に、マッタ-ホルンの美しい姿が飛び込んできた。雲に隠れてみ
えない日も多いと聞いていたから、ラッキ-!である。

  私は、ツェルマットのユ-スホステルに行った。幸い宿泊できるということだった。指示された
部屋に行ってみたら何と屋根裏部屋だった。人気のある観光地だけに、いい部屋は予約でど
んどん埋まってしまうらしかった。
  同じ部屋に白人の若者が二人いた。向こうから英語で、
"Do you spake English ?"
と、声を掛けてきた。二人ともフランス人で大学生ということである。一緒に外に出て、ユ-スホ
ステル前の草地でマッタ-ホルンを眺めていたら、やはり同じ部屋にいた、白人のおじさんと東
洋人のおじさんもやってきた。ドイツ人と韓国人ということだった。この日、その屋根裏部屋は、
フランス人×2、ドイツ人×1、韓国人×1、そして日本人×1の四か国五人で構成される素敵
な多国籍ル-ムになっていたのだった。
  多国籍の人間が一緒になると、自然に英語が共通語になる。この時もそうだった。この日
は、英語のネイティブスピ-カ-は一人もいなかったが、5人とも、レベルに違いはあっても英語
を話すことができた。私たちは、草の上に腰を下ろした。そして、マッタ-ホルンを眺めながら、
いろんなことを語りあった。

「パリまで自転車で走った後、鉄道でドイツに行こうと思っているんですが、どこがお勧めです
か?」
「ライン川下りに行ってみるといい。日本人にはとても人気があるよ。」
「日本ではどこがいいですか?」
「京都がいいと思います。でも日本に来たら、全てのものが高価なので、びっくりすると思いま
すよ。」

そんなたわいもない観光案内もあれば、その一方でシビアな話もあった。フランス人の学生は
現在一九歳で、来年は兵役だという。軍隊に入ることをとても不安に感じているようだった。韓
国人のおじさんからは、韓国では、ちょうど大学在学中となる年齢で2年間の長い兵役がある
ので、大学生の年齢が、日本に比べてかなり高い、ということを聞いた。スイスに兵役があるこ
とは知っていたが、毎年軍事訓練がある等、他のヨ-ロッパ諸国に比べても、とても厳しいもの
であるということはこのとき知ったことである。日本には兵役はないと言うことを聞いて、誰も
が、とりわけ翌年に兵役をひかえた、フランスの学生二人はとてもうらやましがっていた。国際
社会の現実と言うものを感じることになってしまった。

  私達はまた、お互いの国の言葉を教えあった。
「英語の『サンキュ-』はどう言いますか?」
「韓国語では『カムサハムニダ』です。」
「ドイツ語では『ダンケ シェ-ン』です。」
「日本語では『ありがとう』。でも、『ありがとうございます。』の方がいいです。」
「フランス語では『メルシ-』、『サンキュ- ヴェリ- マッチ』だったら 『メルシ- ボ-ク-』です。」  
「『ボ-ク-』の発音がちょっと難しいですね。」
「日本語の『満腹』は、韓国語でも『マンプウ』と発音するんですよ。」・・・・・・

  楽しかった。今まで知らなかったことも知ることができた。いろんな国の人達といろんな話が
できた。英語の勉強を始めて本当に良かった、とも思った。ヨ-ロッパツ-リングのアルバムに
は、この時、5人で一緒にとった写真の横に、"The best day in this trip."と記してある。


        The best day in this trip


  翌日、私は登山電車に乗った。この登山電車は、急な勾配を登っていく為に、最初から床を
傾けて造ってあった。標高3100mにある終点ゴルナ-グラ-トで降り、展望台に行った。快晴だ
った。そして、正面には青空をバックにした雄々しいマッタ-ホルン(標高4477m)の姿があっ
た。まさに、最高の景色だった。
  反対側に目を移すと、眼前に雄大な氷河が重く、そして眩しくひろがっていた。スイス・アルプ
スの主峰モンテ・ロ-ザ(標高4634m)から発するゴルナ-氷河である。
「ヘ〜、本当に氷の河なんだ。」
生まれて初めて見る氷河は、まさに「氷の大河」そのものだった。

  モンテロ-ザの山頂付近は万年雪で覆われていた。垂直分布で言う高山帯の更にその上、
日本には存在しない氷雪帯である。私は、のんびりと山を降りていった。ゴルナ-グラ-ト周辺
は、岩肌が露出し、ほとんど植物らしい植物が生えていなかったが、標高2500m付近から、背
が低く、花が大きくて色鮮やかな、典型的な高山植物が増え、高山草原、いわゆるお花畑にな
った。高山植物は固有率が高いだけに、日本では見たことがないようなものもあった。日本の
本州中部だと針葉樹林帯になる高さだが、森林限界はずっと下だった。この森林限界の高さ
から推測すると、スイスの気候は日本の東北地方くらいのものなのだろう。そして山を降りてい
くに従って、草丈が高い植物が増えてきた。(さすが 生物の先生、見るところが違う!)  
  途中、休憩所になっているところがあった。私は草の上に腰を下ろした。マッタ-ホルンを眺
めながら、のんびりとお茶を飲んだ。ずっと遠くまで草原がひろがっていた。遠くから、牛の鳴ら
すカウベルがのどかに聞こえてくる。『アルプスの少女ハイジ』の世界がそこにあった。

  
   国 境 (3)

  ツェルマットを後にした私は、その日、レマン湖を目指して走っていた。道路の両側には一面
にブドウ畑がひろがっていた。途中、小さな町でマクドナルドを見つけた。
「マクドナルドは、本当にどこにでもあるんだなあ。」
と思いながら、地図の確認も兼ねて休憩を取った。味が万国共通なので安心感があることと、
それこそどこにでもあることから、マクドナルドはこのヨ-ロッパツ-リングでも何度も利用した。
  レマン湖に向けひたすら西に向かって走っていた時、それまで見たことのなかった標識が目
にとまった。茶色のボ-ドにイタリックの白抜きで書いてあるのだ。それまでは、日本でもよく見
るように青地に白抜きのゴシックだったので、最初は、レストランかなんかの看板だと思った。
しかし、それが道路標識であることに気付くのに、そんなに時間はかからなかった。"de"とか、
"la"とかいうような、冠詞らしきものが目についた。フランス語圏に入ったのだった。
  日没が近くなっていた。フランス語圏に入ってすぐの町で宿を見つけた。そして、スイスでそれ
までそうだったように、英語で
"Do you have a room ?"
と尋ねたのだが・・・・
                                                      
  私はここで再び、強烈なカルチャ-ショックを受けることになってしまった。英語が全然通じな
いのだ。フロント係に何を言っても全然わかってもらえない。
「ついさっきまでみんな英語ペラペラだったじゃないか。いったいどうなってるんだ?」
スイスの第一印象が、「みんな英語ペラペラ」だったから、私は面食らってしまった。フロント係
の人も困ってしまって様子だったが、すぐに、英語の話せる女性スタッフを呼んできてくれた。
それで、どうにか宿泊と食事はできたが、そのホテルで英語が話せたのは、従業員及び客を
含めて、その女性スタッフ唯一人だった。
  そのことが、ドイツ語圏からフランス語圏に入ったせいだ、ということはすぐに分かった。が、
しかし、同じスイス国内である。頭ではスイスは多民族国家ということはわかっていても、となり
の町に行くと言葉が通じなくなるというのは、私にとってショック以外の何ものでもなかった。し
かも私は自転車で走っているのである。先程立ち寄ったマクドナルドからこのホテルまでは、そ
んなに離れてはいなかったから、よけいに驚きに感じられた。緩衝地帯もまったくないような、
「目には見えない国境線」がそこに引かれていたのだった。



第3章 そして花の都へ 〜フランス〜




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