第1章 遺跡・恐怖・そして人情 〜イタリア〜

 コロッセオ

  ロ-マに到着し、テルミニ駅(ロ-マの中央駅)近くの安ホテルに宿をとった後、私は多くの遺跡
が残る街を一目散に歩いていた。ロ-マに着いたら何よりも見たいと思っていたものがあった
のだ。円形競技場・コロッセオである。テルミニ駅からそう遠くないところにそれはそびえ立って
いた。
「すごい!」
私は思わず、感嘆の声を漏らした。ガイドブックには、完成は紀元八〇年とある。
「は〜、一九〇〇年以上も前に、よくもまあこんなものが造れたもんだ・・・・」
私はそのことを驚異に感じずにはいられなかった。そして、これを見られただけでヨ-ロッパに 
やってきた価値があったとさえ思えた。

  生まれて初めての海外旅行であり、海外ツ-リングでもあった北米ツ-リングの後、私は、ヨ- 
ロッパツ-リングの計画を練っていた。おそらく、多くの人がそうであるように、
「アメリカの次はヨ-ロッパ。」
と、単純に思ったのに加え
「昨年ロッキ-山脈を越えたんだから、今度はアルプスを越えたい。」
と思ったのである。そして、ロ-マをスタ-トしてイタリア半島を北上し、ジェノバ、ミラノを経てスイ
スに入った後、アルプスを越えて、セ-ヌ川沿いにパリまで走ることにした。ロ-マのコロッセオ 
から、パリの凱旋門までのツ-リングである。
  私は、愛車CAPE号と共に、シンガポ-ル航空のジャンボジェットに乗ってロ-マに向かった。 
そして今、ヨ-ロッパツ-リングのスタ-ト地点に決めたコロッセオにやってきたのだった。

「いってやるぜ、パリの凱旋門まで!」


       コロッセオ


  いい加減!

  私はロ-マ到着後、数日間の観光をすることにしていた。もちろん、せっかく遠いところまでや 
ってきたということ、そして世界的な観光地であるということもあったが、例によって初めて訪れ
た国での、まったくの一人旅である。まずは、慣れることが、つまり、一人で生きていけるように
なる必要があった。とりわけ今回のヨ-ロッパツ-リングでは、言葉に対する不安が非常に大き 
かった。一年前の北米ツ-リングの際も、初めての海外旅行で、しかも自転車ツ-リングというこ
とで不安と心配だらけだったが、言葉に関しては、英語の辞書さえ持っていればなんとかなる、
というそれなりの安心感があった。しかし、今回は英語圏ではないので、たとえ簡単な用件でも
うまくコミュニケ-ションを取れるかどうかが心配だった。
  私はまず、"Excuse me ."の意味の"Scusi (スク-ジィ)"、「こんにちは」にも「さようなら」 
にも使える "Ciao(チャオ)" 、「ありがとう」を意味する"Grazie(グラ-ツイエ) "という三つの 
イタリア語を覚えた。この三つと"Yes.""No."を意味する現地語はは、経験上最も重要なサ 
バイバル単語である。私はこのサバイバル単語と会話集、そして英語でどうにか必要最小限 
の用を足しながら、ローマ市内の観光名所を地下鉄と自分の脚で歩いて廻った。その有名さ 
に偽りはないと思わせるものばかりだった。とりわけ、コロッセオをはじめとして、フォロ・ロマ- 
ノ等の古代遺跡はまさに感動ものだった。

  古代遺跡と並んで、あるいはそれ以上に私に強烈な印象を与えたものがある。それは、良く 
言えばイタリアのおおらかさ、悪く言えばいい加減さである。イタリアに来る前から噂には聞い 
ていた。しかし、「我ながらアバウトだな」と自分で思うことが多い私でさえ、「目が点」状態にな 
ることが何度かあった。
  例えば地下鉄の切符である。切符も自動販売機、改札も自動改札にはなっており、最初は 
何の疑問も感じずに切符を買い、改札を通っていたのだが・・・・、何度か乗るうちに、その切 
符が気になってきた。磁気テープが付いているわけでもなければ、特に複雑な模様が印刷され
ているわけでもない。何度かひねくり回してみてみたが、どう見ても、ただの色の付いた紙にし 
か見えないのだ。そして、自動改札口にその切符を入れると、ガチャンと音がして、その日の 
日付けが印刷されるだけなのだ。そして出口でも、特に誰かがチェックをしているわけでもなけ
れば、あるいは車内に検札が来るわけでもなかった。
「これでどうやって乗車駅が分かるんだ?」
まさか、とは思ったが切符の謎は私の中でどんどん膨らんでいった。
「もしかしたら、単に色の付いた紙に日付を印刷しているだけなのか?」
 私は遂にこの謎を解き明かす決心をした。私は謎の切符を改札口に入れた。ガチャンと音 
がして、その日の日付けが印刷された。もし、これで乗車駅や時間がどこかに記録されていた 
としたら、もう一度入れれば「ガチャン」ではなく「ブー!」なり「ピー!」なりなんらかの異なった 
リアクションがあるはずである。私は既に日付が印刷されたその切符を、恐る恐るもう一度改 
札口に入れた。

「ガチャン!」

まったく同じ音だった。そしてその切符には、最初に印刷された日付の上に、重なるように同じ 
日付が印刷されていたのだった。
「やっぱりただの紙だった・・・・」
私の頭は、その二重に日付が入った切符のおかげで、しばらくの間混乱していたのだった。


   恐怖の歓迎

  ロ-マに到着した翌日のことである。この日も私は真実の口、バチカン市国など、主だった 
ロ-マの観光名所を見て回った。そして、トレビの泉を見た後、宿に帰るために、地下鉄の駅に
向かって大通りを歩いていた時のことだった。すれ違った男から英語で声をかけられた。
「すいません、トレビの泉はどこですか?」
私は、トレビの泉の方向を指で指して説明をした。が、その男いわく、
「私は、今日ロ-マに着いたばかりのスイス人で、道がよくわからない。案内してもらえません 
か?」
ということだった。
 私は、その日、もう特に予定がなかったこともあり、案内してやることにした。私達がお互いに
自己紹介や旅の話等をしながら歩いているとき、その男に
「この近くに、『ロ-マの休日』でグレゴリ-・ペックが入った有名なBARがあるらしいから行って 
みないか?」
と誘われた。そして、トレビの泉に行った後、
「じゃあそのBARに行ってみよう。」
と言うことになった。

  ※ BAR(バール)は酒場ではなく日本の喫茶店の感じが強い店。
   
 そのスイス人は地図を見ながら場所を確かめるようにして歩いていく。私はそれについていっ
た。そして1軒のBARにやってきた。店の前にはボ-イのような若い男が一人立っていた。私を
つれてきた男がその若いボ-イに
「ここがグレゴリ-・ペックが入ったBARですか?」
と訪ねた。
「そうです。」
若い男が答えた。私達はその店に入った。ところがである。店の中がやけに暗いのだ。そして 
席に着いたとき、私の横に女が座った。

「しまった、やられた!」

私が連れ込まれたのは間違いなくボッタクリバ-だった!!
「ちくしょう、俺がこんな罠に引っかかるなんて・・・・」
私は自分の顔がひきつったのを感じた。ピンチに陥った時には、みやげ話ができたと考えるこ
とにしている私だったが、みやげ話ではすまなくなるかもしれない。しかし、それでも私は無理 
矢理、
「やれやれ、とんでもないみやげ話ができちゃったぜ。」
と考えることにした。
年配のウエイタ-がやってきて予想通り、
「酒を注いでもいいか?」
と私に尋ねた。私は、自称スイス人に、
「私は酒が飲めない。そしてあまりお金を持っていない。」
と言ったところ、その男いわく、
「私が払う。」
ということで、酒が注がれてしまった。
 私をつれ込んだ男は自分のとなりに座った女と、わざわざ英語で
「グレゴリ-ペックがどうのこうの・・・・」
といった話をしている。イタリア語だったら、たとえ
「この間抜けな日本人が・・・・」
等と喋ってもこちらにはわからないのに、まだ、私をだますための芝居をしているのだ。
「律儀だなあ。」
と思ったら笑えたが、笑っている場合ではなかった。とにかくこの大ピンチを切り抜けなくては 
いけないのだ。仮に切り抜けられないにしても、被害を最小限に食い止めなくてはならないの 
だ。

  私が、背中のナップサックも、腰のウエストバッグもつけたままにしていると、私のとなりに座 
った女がが、さかんに
「バッグを下ろして楽にしなさいよ。」
と言ってくる。これらを離したら逃げるに逃げられない。しかし、その一方で、私が警戒してい
る 
ことを感づかれると、逃げるスキはできないだろう。そこで私は、超シャイな日本人学生を演ず 
ることにした。(※注 私は元々とてもシャイである。)そして、
「こんな美人の女性に囲まれるのは初めてなのでとても緊張しているんです。」
と言って、緊張でコチコチになっているふりをして、バッグは離さないでいた。もう、完全にだま 
し合いである。そして、頭の中では脱出作戦を練っていた。
  私は冷静だった。そして冷静でなくてはならなかった。そして、私のたてた大脱出作戦と 
は・・・・・・

@ おそらく彼らは日本円で数万円あるいはそれ以上の請求をしてくるだろうが、今財布の 
   中に現金は約1万円である。
A 従って財布の中身を見せ、1万円しか持っていないことを示す。、そしてこのうち5000円
   は宿に払わなくてはいけないから5000円しか払えないと言う。 要するに、それ以上の支
   払いは拒絶する。
B クレジットカ-ドや、トラベラ-ズチェックを出せと言われるだろうが、持っていないと突っぱ  
   ねる。
C 払えないと粘れるだけ粘り、無理ならあきらめて支払う。
D 逃げることも計算に入れ、請求書を見たときに驚いたふりをして立ち上がる。そして、いつ
  でも逃げられる体制を造る。

  作戦D等は半分冗談に聞こえるかも知れないが、その時の私は真剣だった。そして必死だ 
った。

  私は頑張って楽しんでいるふりをしていた。そしておそらく恐怖の時間が三〇分ほど経っただ
ろうか。ウエイタ-が請求書を持ってやってきた。私への請求は『五十万lit(リラ)』日本円にし
て 約五万円である。頭の中では
「やっぱりな。」
と思ったが、私は目一杯驚いたふりをして、作戦通り飛び上がるように立ち上がった。そして、 
財布の中身を見せ、
「五千円しか払えない。」
と言ってやった。案の定、
「トラベラ-ズチェックか、クレジットカ-ドを持っているだろう。」
と言ってくる。もちろんその時どちらも持っていたが、私は
「持っていない。」
と突っぱねた。今度は、
「ウエストバッグの中を見せろ。」
と来た。私をつれ込んだ自称スイス人は白々しく私のことをフレンドと呼び
「フレンド、これはリラじゃないか、そんなに高くないじゃないか。」
等と言ってくる。
「トラベラ-ズチェックか、クレジットカ-ドを持っているだろう。ウエストバッグの中を見せろ。」
「そんなものは持っていない。見せることはできない。」
「ウエストバッグの中を見せろ。」
「何も持ってないって言ってるんだ。」
・・・・・・
「見せろ。」
「見せられない。」
の押し問答になった。私はチラリと出口のほうを見た。私が立っていた場所から出口のほうに 
は誰もいなかった。自称スイス人は相変わらず私をフレンドと呼び、払わせようとしている。こ 
んな手口に引っかかってしまう自分も馬鹿だが、人の好意につけこむ手口には許せないもの 
があった。私は自称スイス人に
"You are not a friend."
そう一言言ってやった。そして次の瞬間、私は脱兎のごとく(この表現が本当にピッタリだっ 
た。)出口に向かって走っていた。後ろで
「ポリス!」
と叫ぶのが聞こえた。店の入り口に立っていたボ-イが気になったが、幸い、その若い男は店 
のほうに背中を向けて入り口に座っていた。イタリア人のいい加減さを、この時は感謝した。私
はそのボ-イの横をすりぬけ道路に飛び出した。そして全力で路地をジグザグに走った。どのく
らい走っただろうか。私は広い通りに出た。交通整理をしている警官の姿があった。
「警察官ですか?」
「そうです。」と聞いてやっと安心することができた。そして同時に、その時までは冷静だった私 
の中に、恐怖心が沸き上がってきたのだった。

  完璧だった。自分でも感心するくらい予想通りに事が運んだ。そして自分が予想した以上にう
まく脱出することができた。結局私は一円もとられなかったのである。冷静にピンチを脱する方
法を考えたこと、私が一人であったこと(何人かで一緒だったらこうはいかない。)、走って逃げ
られるだけの体力があったこと、逃げ路を塞がれていなかったこと等、脱出に関しては好条件 
(?)が重なっていたことが幸いした。

  結果だけ見れば、これ以上はない最高の結果だった。しかし、である。後から振り返ってみ 
て、あの時の自分の判断があの状況下で最高の判断だったかというと、おそらく違うだろう。結
果的に、いわば飲み逃げになったことを言っているのではない。なんらかのピンチに陥ったと 
きには、最も優先すべきはお金ではない。身の安全である。幸い、私は逃げられたから良かっ
た。しかし、である。もし、出口に向かって走り出したはいいが、捕まっていたらどうなっていた 
だろうか。今思い出してもゾッとする。もちろん、当初から逃げ出せるものなら逃げると言うこと 
は考えていた。そして、請求書を見せられた時、驚いたふりをして立ち上がる、というところまで
は計算通りの行動であり、また最高の判断だったと思う。しかし、走りだしたのは冷静に計算し
てそうしたわけではなく、とっさの判断だった。
  道路まで飛び出せば、毎日走っている私である。絶対に逃げ切れるとは思っていた。何のト 
レーニングもやっていない相手に逃げるのだったら、どのくらいのスピードで何分位走ればい 
いかまで計算していた。しかし、その時、確実に道路にまで出られる保証はなかった。捕まって
いたら絶対にタダではすまなかっただろう。したがって、あの時は、最終的に、日本円で五万円
という法外な金を払うことになったとしても、値切れるとこまで頑張って値切ってみるか、チョット
高めの授業料と割り切って、おとなしく払っておくべきだったのだろう。
 後から考えると、おかしいところは沢山あった。まず、自称スイス人だが、今スイスから来た 
ばかりと言っているのに、ほとんど手ぶらだった。道がよくわからないなんて言っているのに、 
地図を見ながらではあるが、そのBARまでは比較的すんなり歩いていった等である。そしてな 
により、そのBARが足を踏み入れた時かなり暗かった。その中のどれかに、早く気付くべきだ 
ったのだ。
  しかし、私はそれに気付かずに連れ込まれてしまった。その時の私はまだ時差ボケが残って
おり、しかも二日続けてロ-マを歩き回った後であり、疲れている時だった。普段からおかしな 
誘いには結構用心しているのだが、疲れている時であり、しかも慣れぬ国での一人旅というこ 
とで、とんだ事になってしまったようだ。また、この時はそれなりに英語が分かるのが仇になっ 
てしまった。
 
  後日、いろんな国の人にこの恐怖の体験を話す機会があったが、実はこのロ-マのボッタクリ
バ-の手口は世界的に有名らしく、どの国の人にも、
「それはロ-マではとても有名な手口じゃないか。」
と笑われてしまった。

  私はクタクタになって宿に帰った。私がグッタリしているのを見てフロントのスタッフが
「何かありましたか?」
と聞いてくれた。苦笑いをしながら
「BARで五十万リラも請求された。」
ということを言ったら
「それはひどい。あまり奥まった所にある店には行かないほうがいいよ。」
と言ってくれた。交通整理をしていた警官も、この宿の従業員もとても親切で好意的だったこと 
に少し救われた気がした。
  美しい魅力的な街であり、まだ見たい場所もあったのだが、もう、ロ-マには居たくなかった。 
私は輪行袋を開け、自転車を組み立てた。予定を1日繰り上げ、翌日の朝すぐに出発すること
にしたのだった。


  地中海

  翌朝、私は愛車CAPE号と共に、再びコロッセオの前に立っていた。逃げ出すような気分で 
ロ-マを離れるのは嫌だったが、結局被害はなかったんだし、気持ちを切り替えて、
「目指せ、パリの凱旋門!」
である。
  私は、イタリア半島西岸を地中海沿いに北上することにした。そしてロ-マの美しい町並を西 
へ向かった。市街地を抜け、やがて海岸線に出た。始めてみる地中海である。海水浴場のよ 
うなところがあった。私は地中海に"触って"みたいと思った。私は自転車と一緒に浜辺に下り 
ていった。静かな波打ち際に立って海の水に手を浸した。
「やった〜、去年の大西洋に続いて、今年は地中海を触ったぜ!」
  そのあと何気なく周囲を見回した私は思わず、
「オッ!」
と声を出すことになってしまった。そこで私の目に飛びこんできたのは、なんとトップレスの女性
の姿だった。このヨ-ロッパツ-リングでは、浜辺や湖畔で多くのトップレスの女性を見かけたの
で、ヨ-ッパではそれが普通のようである。

  この日は、シビタベチアという港町で宿をとることにした。潮の香りと白い船、そして彫りが深く
寡黙な海の男達・・・港町の景色と雰囲気はどうやら万国共通のようである。
  私は、アルベルゴ(ホテルの意味)・ロ-マというトイレ・シャワ-共同で一泊約1500円の安ホテ 
ルを見つけそこに宿泊することにした。宿泊手続きを済ませていると経営者の息子さん(といっ
ても30歳くらい)が英語で話しかけてきた。数年前に世界一周中の日本人サイクリストが宿泊し
たことがあると言うことで、その時の宿帳を見せてくれた。そして、その日本人サイクリストに習
って知っている日本語があると言う。どんな言葉が出てくるのかと思ったら・・・ここには書けな 
い放送禁止用語ばかりだった!
  その息子さんには
「明日一緒に朝食を食べないか。」
と誘われたので、イタリアの海の男達との朝食を期待しながら、翌朝フロントに行った。しかし、
息子さんほどこかに行ってしまっていないという。自分で誘っておいてしっかり忘れたらしい。私
も大事なことを忘れることが多いほうなので、あまり偉そうのことは言えないが、やっぱりイタリ 
アだなあと笑えてしまった。


  ミ-レ・グラッツィエ

  暑い中でのツ-リングが続いた。ヨ-ロッパは日本よりはるかに涼しいだろうと思っていたのだ 
が、イタリアの半島部はそうではなかった。海沿いと言うこともあるのだろうが、気温、湿度共 
に西日本とほぼ同じという感じだった。
  ロ-マを出発して数日後のことである。私はその日も暑い中、ペダルを踏み続けていた。
「チャリ-ン」
何か硬貨でも落としたような金属音がしたあと、チェ-ンがはずれてしまった。すぐに付け直して
走り始めたが、またすぐにはずれてしまう。おかしいと思って調べてみると、なんと変速機のギ 
アが1枚脱落してしまっていた。私は青ざめた。チャリ-ンという音が聞こえたときは、何かふん 
ずけるか硬貨のようなものを跳ね飛ばしたんだろうと、あまり気にも止めずにいたから、ギアは
当然見つからなかった。ロ-ドレ-サ-に必要最少限の荷物だけを積んで走っている私は、パン 
ク修理のための工具と予備のタイヤとチュ-ブを1本ずつの他は、修理の道具を何も持ってい 
なかった。修理不能であった。あたりははるか彼方まで畑が続く農村地帯だった。自転車店
が 
あるような町まではかなり距離がありそうだった。しかし、とにかく私は自転車店を探さなけれ 
ばならなかった。

  私は、自転車と共にトボトボと歩き続けた。しばらくして、自転車の親子連れが私を追い越し 
ていった。おそらく地元の人だろう。
"Scusi !"( スク-ズィ、英語の"Excuse me" の意味で「すいません」)と私はその二人を呼 
び止めた。幸い父親のほうが英語を話すことができた。
「自転車が故障してしまったのですが、この近くに自転車店はありませんか?」
と聞いてみた。しかし、
「10km以上離れている。」
ということだった。さらには、
「急いでいかないと、1時には閉店してしまうよ。」
ということだった。とりあえずお礼を言って私はまた歩き続けた。

  暑い日だった。1時間以上歩いただろうか。もう昼を過ぎていた。ボトルの水はとっくに無くな 
っていた。喉はカラカラだった。1時までに町まで着けるわけがなかった。イタリアでは、通常1 
時に商店が閉まり、長い昼休みのあと再開するのは夕方4時位だから、少なくとも、次の町で 
一泊を強いられることになった。また、自転車店が見つかったとしても、ここはイタリアである。 
私の自転車にあう部品があるかどうかも分からなかった。部品が無かったら、最悪の場合、ヨ 
-ロッパツ-リングはそこで終わりである。
「やれやれ、腹も減ったし、喉も渇いた。最悪だぜ・・・。」
そう思いながら、ヨタヨタ歩いていたときのことである。突然、前方に1台の車がクラクションを 
鳴らして止まった。
「な、な、な、何事だ?」
驚いた私は思わず身構えた。車からドライバ-が降りてきた。なんとそのドライバ-は、先程自 
転車で私を追い越していった父親だった。彼は私を指さし、ニヤリと笑って一言、
「ラッキ-・ボ-イ!」
彼は、私が到底1時には自転車店に着くことができないのを見て、また、おそらくイタリア語が 
全然できないのを気遣って、わざわざ車で送り届けに来てくれたのだった。私はなんと言ってい
いのか分からなかった。とにかく
"Grazie(グラッツィェ、ありがとう)."
と何度も言った。
  自転車を屋根のキャリアに固定してもらった後、車に乗り込んだら、奥さんと、先程自転車に 
乗っていた息子さんも一緒だった。奥さんと息子さんは英語が話せなかったので言葉は通じな 
かったが、にっこりと微笑みかけてくれた。それで十分に気持ちは通じた。息子さんが、ミネラ 
ル・ウォ-タ-のボトルをわたしてくれた。喉がカラカラになっていた私は、一気に飲み干した。そ
して
"Grazie. "
とまた言った。一緒にニッコリすることができた。

  1時直前に自転車店に着くことができた。車から自転車を下ろした後、父親が故障の状況を 
説明してくれた。幸い、部品があり、修理は無事終わった。自転車屋さんに
"Quanto costa?(クアント コスタ、いくらですか?)"
と聞くと、イタリア語で何か言われた。なんと言ったのか分からなかったので、メモを出して書
い 
てくれるよう頼むと、親指と人差指で丸をつくって、
「ゼロ」
修理代金は要らないと言う。そんなわけにはいかないので少しでも受け取ってもらおうとした 
が、受け取ってくれなかった。私はここでもなんと言っていいのか分からなかった。私を送り届 
けてくれたその家族と、無料で修理してくれた自転車屋さんに
"Mille grazie(本当にどうもありがとう)!"
と何度も言った。そして再びパリを目指したのだった。
  帰国後、イタリアにこの時の御礼の手紙を書いたが、その後もこの家族とは、クリスマスカ-ド
と年賀状の交換が何年も続いた。


  スイカがうまい!

  私はイタリア半島西岸を、ロ-マからモナコにまで続くナショナル・ロ-ド1号線に沿って走り続 
けた。この道は、どこの国でも重要な幹線道路となっている「国道1号線」としてはあまり広い道
ではなかったが、両側に松の木が植えられ、自転車にとっては非常に快適であった。このイタ 
リア中部は、干草ロ-ルが並んでいるなだらかな牧草地や広大なヒマワリ畑がひろがり、北海 
道によく似た景色だった。
  相変わらず暑かったが、私はツ-リングの強い味方を見つけていた。スイカである。ある日、 
私は昼食と飲料水を購入するため、ス-パ-マ-ケットに立ち寄った。そして、そこで、スイカがと 
ても安いのに気がついた。直径30cm位の半玉がなんと150円くらいである。暑い中を走ってき 
た後だった。私はすぐに結論を出した。
「俺はスイカ大好き。食べなきゃ損!」
そして、その大きなスイカと、スイカを食べるためのスプ-ンを買ってしまったのだった。イタリア 
のスイカは日本のスイカと違って、楕円球形をしていたが、味は同じだった。
  私は「ピサの斜塔」で有名なピサを経て、ラ・スペチアという町に着いた。暑い中を走ってきた 
後だったので、やはりスイカが食べたくなった。そして、果物屋台で大きなスイカを丸ごと注文し
てしまった。屋台のおばさんには、
「本当にこれを一人で食べるの?」
と何回か念を押された。信じられないと言う顔でおばさんが半分に切ってくれたスイカを私はし 
っかり全部食べてしまった。さすがに、その時はそれだけで満腹になり、夕食を食べることが
で 
きなかった。食べ終わった跡で
「これは腹をこわすかもしれないな。」
と思ったが、もともと大食らいの私のお腹は何ともなかったので、その後、イタリアでは町のス-
パ-マ-ケットで、そして道端の果物屋台で、時には食事の変わりに、スイカをたらふく食べなが
らのツ-リングとなったのであった。
 
   
   ピサの斜塔
                                                           

  リヴィエラ

  私は、イタリア半島の根元近くまでやってきていた。私はその日ラ・スペチアから、イタリア半 
島の西の付け根、ジェノバを目指して出発した。ジェノバはフランスのコ-ト・ダジュ-ルから続く 
海岸線にそったリゾ-ト地、リビエラの中心都市である。また、コロンブス生誕の地でもあり、サ 
ッカ-の三浦知良選手がイタリアで所属したチ-ムのある町でもある。
  ラ・スペチアを出てすぐに急な勾配のアップダウンが始まった。自転車が最も苦手とするリア 
ス式海岸だった。急なアップダウンはいつ終わるともなく延々と続いた。
「もう、や〜めた!」
最初は、意地でも自転車を下りずに上りを登っていた私だったが、ついにギブアップした。そし 
て、下りの時だけ自転車に乗り、登りは無理をせずに素直に自転車を下りて歩く、ということを 
繰り返すことになった。
「いったいいつまで続くんだ?」
景色と雰囲気は抜群に良かった。入り組んだ海岸線の奥にヨットが浮かび、別荘が立ち並ん 
でいる。いかにもヨ-ロッパのリゾ-ト地という感じだった。映画の中を走っている様でもあった。 
しかし、抜群の景色の良さ以上に、抜群に苦しい急な上り下りの連続はどこまでも続いた。
「まあ、いくらリアス式海岸と言ったって、いつかは終わるさ!」
と、自分で自分を励ましていた私だったが、  
「遂に平坦な道になった!」
と思ったのは、ジェノバの市街に入ってからだった。結局その日は朝から夕方まで、延々 
100km以上のアップダウン道だけを走ることになったのだった。


   ミラノへ

  ジェノバから海岸線を離れ、北に向かった。ジェノバ北側の山を登りきり、峠のBARで休んで
いたら、若い警官が二人入ってきた。なんと、マシンガンを持っている。小型のマシンガンだっ 
たが、やはりそれだけでかなりの威圧感があった。思わず、びびってしまった。
  ロ-マで、サイレンを鳴らしながら走っていくパトカ-に乗っていた警官が、窓からマシンガンを 
突き出して持っているのを見た時には、よっぽど凶悪な事件でも起こったのかな、と思ったが、
この二人はパトロ-ルの途中でちょっと立ち寄ったという感じだったので、
「そのマシンガンはいつも携帯しているのですか?」
と聞いてみたら、やはり、
「そうです。」
ということだった。私が驚いているのを見て、
「日本ではどうですか?」
と聞き返された。
「日本ではピストルだけです。」
と答えておいたが、いつもマシンガンを携帯するということは、犯罪者の側も強力な武器を持っ
ているということの現れでもあるから、日本の治安の良さが変な形で(?)感じられてしまった。

  ジェノバから一山越えて内陸部に入ったら、急に少し涼しくなった。私は涼しくなった道をミラノ
を目指した。ミラノまでは200km近くあり、宿泊先に決めていたユ-スホステルに着いたときは 
かなり遅い時間になっていた。ヨ-ロッパ諸国は陸続きで比較的移動がしやすいせいだろう。ミ 
ラノのユ-スホステルにはアメリカ各地のユ-スホステル以上に多くの国から若者が集まってい 
た。この日は到着が遅かったこともあり、あまり話をする時間が無かったのが残念だったが、 
それでも、ポ-ランド人など、今まで話をしたことのない国の人たちと話をすることができた。
  翌日、私は有名なミラノのドゥオモやレオナルド・ダ・ヴィンチの名作『最後の晩餐』(残念なが
ら一部修復作業中だった。)等を見て回った後、自転車をユ-スホステルに預け、列車で休養も
兼ねて、水の都ヴェネチアに向かった。ヴェネチアは一度は行きたいと思っていた町だった 
が、期待に違わない美しい町だった。そして、ミラノに戻った後、さらに北に向かった。


  田舎のBARにて

  ミラノからイタリア北部の湖水地方を経て、イタリア・スイス国境が近くなってきた。途中、休憩
のため小さな村のBARに立ち寄った。観光地でもなければ何でもない村の、小さなBARであ
る。東洋人が立ち寄ることなど、これまでまず無かったのだろう。店に入るなり、店のマスタ-も 
他の客もちょっと驚いた顔をした。もちろん、親切に応対をしてくれたので、不快感を感じるよう
なことはまったく無かったのだが、
「変な奴が来た。」
というような、見知らぬ遠来の客に対して、誰もが戸惑いを感じているのがわかった。カプチ- 
を飲みながら地図を見ていたら、カウンタ-でマスタ-と話をしていた男性が英語で、
"Do you speak English ?"
と尋ねてきた。そして、その客と英語での会話が始まった。
「どこから来たんですか?」
「日本からです。自転車でロ-マを出発して、パリまで行く途中です。」
  ふと気がつくと、それまで、ワイワイガヤガヤと話し声でにぎやかだった店内が静まり返って 
いる。なんと、その店にいた誰もが、私たちの会話に耳を澄まして聞き入っているのだ。よっ 
ど私は注目されていたらしい。今度は思わずこちらが戸惑ってしまった。
  その英語の話せる客が私が日本人であること、ロ-マからパリまでのツ-リングの途中である 
こと等を通訳してくれた。その途端、それまで誰もがよそよそしかったのが、一転して「大歓 
迎!」になってしまったのだ。
  通訳をしてくれた客はスイス人だった。スイスから車でイタリアに来ているということだった。 
境まで、車ならそう遠い距離ではない所だったが、日本人の私には、自分の車を運転して国 
を越え、外国に行くということは何かややこしい手続きがいることのように感じられた。車でスイ
スから来たというのを聞いて驚いている私を見て、その客は店の前に止めてあった自分の車 
を見せてくれた。
「ナンバ-プレ-トを見てみなさい。」
と言われて見てみると、そこにはスイス国旗の赤字に白十字を示したこんなマ-ク□が描いて 
あった。
  私は、短いながらも楽しい時を過ごせたそのBARを後にしてさらに走り続けた。そして、いよ 
いよイタリア・スイス国境が、さらにはこのツーリング最大の難所、アルプス山脈が眼前に迫っ 
てきたのだった。


      運河をゴンドラが行く  ヴェネチア 



第2章 絵葉書の中で 〜スイス編〜 



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